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600年の伝統 桐生厄除け薬師霊場

境内案内

①本堂(法堂)

宝永7年(1710)建立。四方欄間の彫刻は、一枚の板に両面透し彫りが刻まれており、彫刻師は上田沢(桐生市黒保根町)の関口文治郎と山の神(太田市薮塚町)の岸亦八の手によって彫刻された大変貴重な彫物です。また、内陣天井の皎龍の絵及び大間の格天井の絵画は仲永秀・英道の銘があり、襖の絵共々、当時の叢林をを忍ばせるものがあります。令和2~4年にて本堂西側及び正面を改修。

②山門

慶安2年(1649)建立。三代将軍家光公の特使を受け造られたと伝えられており、紋瓦には、徳川家の葵の紋が飾られています。また、当寺は修行道場であったため青枩林の林号を記述した額が山門に掛かっております。

③長屋門

菱町の戦国時代の領主であった細川内膳の屋敷門を移築したものとされています。屋根は萱葺で、二階建てになっており、二階の窓は菱形の格子窓で俗に鉄砲窓と呼ばれております。格子窓は内側からは相手がよく見え、外側からは中にいる人が見えないので武家造りの門になっているようです。

④壇信徒会館

法事後のお席等、多目的に利用可能な会館です。2階は坐禅堂になっており、月一回の坐禅会等で使用しています。1階の広間では、御詠歌講の練習会や月一回の写経会を実施しています。

⑤開山堂

開山様、道元禅師様,瑩山禅師様、壇信徒各家のお位牌を安置しております。 

⑥旧鐘楼堂

本堂と同じ宝永7年(1710)建立。二階部分に鐘楼をさげ、建物のバランスとっている様式の鐘楼堂です。老朽化のため、現在は鐘を別のお堂へ下しており、使用しておりません。

⑦鐘楼堂

現在の鐘楼堂です。平成5年建立。皆様がいつでも鐘をつくことができます。鐘を打ち終わった後は、合掌礼拝をお願いいたします。

⑧薬師堂(六角堂)

泉龍院は創建時から薬師如来を本尊として繁栄してきたお寺です。以前は、本堂西側の小高い場所に薬師堂があったそうですが何らかの理由により取り壊しとなり、そのお堂の額だけが残されておりました。当山17世住職が薬師堂の建立を発願し、令和3年に六角堂として本堂脇に薬師堂を建立いたしました。お堂内には、薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将像を安置し、檀徒の村田勝正様が製作した十二神将図が飾られています。

⑨水子地蔵尊お堂

水子供養のための地蔵尊を安置しております。  

⑩えんま堂

閻魔大王、奪衣婆などあの世の裁判官を安置しております。

白山妙理大権現お堂

修行僧の修行中の守り神様である白山妙理大権現を安置しております。このお堂は、山門と同時期(慶安2年:1649年)の建物と推測されています。

水屋

本堂前右側に参拝前に手等を清める水屋がございます。ご参拝前にこちらで手等をお清めください。

茶室(竹享庵)

三畳小間、立礼を含む三つの茶室からなる.小間の上に掲げられる扁額は、永平寺七十九世福山諦法禅師による書で、「竹享庵」の名も禅師様より賜わったものである。

池の庭園

昔からある池を中心とした自然風景庭園。春夏は、水芭蕉、睡蓮、カキツバタなどが咲き、秋は紅葉がきれいです。

大王松としだれ桜の庭園

30 mほどの高さのある大王松としだれ桜を中心とした枯山水様式の庭園。春のしだれ桜の花色が心を癒してくれます。つつじ、牡丹など春は、様々な花が咲きます。

龍の庭園

本堂西側は、以前からもみじが群生し、秋には紅葉がきれいな場所でした。そのもみじ群を背景とした庭園を令和3年に作庭いたしました。龍が水の中から出る様子をイメージした庭園となっており、中央の岩を右方向から見ると、龍の顔のように見えます。

下山昌伯の像・碑(墓所)

 下山昌伯は、文化三年、武州小前田村の医師森元貞の長男として生まれ、幼名を元達という。十五歳の時、江戸に出て旧幕府の典医高野長英の親友、人見氏の門に入り医術を学び、文政九年(1826年)二十一歳の時、下野国菱村の医師下山勝伯が名医なることを聞き、江戸より帰り勝伯の門に入り医術を研究し、遂に勝伯の嗣子となり、下山昌伯三重と改名した。昌伯は、公の医業は勿論、更に西洋医学をも研究し、治療に精進したため、安政年間にこの地方に天然痘なる病気が流行した際、西洋医学により人々に種痘なるものを接種し、天然痘を治したことで有名です。

⑱身代わり観音(十一面観世音菩薩)

当地の名主山越源右衛門(安政二年(1855年)没)は、観音様を日夜信仰し、織物業を営み、多くの下男下女を使い、江戸との取引などを実施していたため、多くの財をなしていました。ある時、賊が源右衛門の家に入り込み、この賊と渡りあった源右衛門は、確かに刀で切られたはずであったが、不思議にも信仰していた観音様が身代わりになって立ち胴を二つに切られ、源右衛門は助かったといわれております。名付けて身代わり観音・胴切り観音と呼ばれ、近隣の信心を集めました。その後、嘉永元年(1848年)に泉龍院に奉納され、今日に至っております。作者年代とも不詳。

身代わり観音の民話リンク

秋葉三尺坊大権現

泉龍院裏山の岩中に奉られております(ご神体は現在泉龍院本堂内に安置)。秋葉三尺坊大権現さまは、観音大士のご化身といわれ、七難八苦の中で特に恐れられている火事、火防災除の仏様です。天保十四年(1843年)に当地の大火災の際に裏山に出現し、当山の大岩窟の中に入り、鎮防火燭を念じられ難を逃れたといわれております。人々は火ぶせの秋葉様として、信仰しており、毎年4月29日に秋葉三尺坊大祭として山登りして岩屋の前でご祈祷をいたしております。

四方竹群(しほうちくぐん)<桐生市指定天然記念物>

中国原産で日本に栽培される稀品であるが、いつごろからこの寺に移植されたのかは不明です。一般の竹類が円柱形の茎を持っているのに対してこの種だけが純四稜形です。今から約300年前当時、当寺は修行道場であったため多くの僧侶が全国各地より集まってきていました。遠くは明(中国)の国からも修行のために訪れた僧侶も少なくなったようです。それ故に当時の修行僧の誰かが四方竹なるものを中国より持参して植えたのではないかと推測されます。天然の四方竹は、近隣にはない珍しい竹として有名です。

大王松(だいおうまつ)<桐生市保存樹>

アメリカ原産の常緑高木で、日本では観賞用として栽培されています。マツ科。高さ三十メートル内外になり、枝は太く、葉は長大で枝の先にほうす状に集まって垂れるので、他のマツには見られない形態を示します。葉は三枚、短枝上に束生し、長いものは四十センチメートルになり、青みをおびた緑色をしています。北アメリカでは、松ヤニ採取のための主要樹で、葉からとる繊維は敷き布団、枕、クッション等に利用されるようです。現在、当寺の大王松は高さ、大きさともに北関東一と称されております。

高野槇(こうやまき)<桐生市保存樹>

日本原産で、本州、四国、九州に産する。この木は、著しく耐陰性が強い。樹形が良いので、庭木として多く植えられるが成長が遅いので造林は行わず、資源の量も多くない。スギ科の高木。樹皮は赤褐色で外面は灰色をおび、縦に割れ目ができて薄くはげる。小枝のまわりには十五~三十個の短枝があり、それから一個の葉がでるので、外観は葉が車状に輪生しているように見える。この葉はもと二個の葉であったのが側面でくっついたものである。当寺のマキは、樹齢五百年の歴史をもち、寺と共に生きぬき歩んできたその風格を表しております。

㉓横瀬氏墓所

横瀬氏は、太田金山城主となった由良(横瀬)成繁(鳳仙寺に埋葬)が戦国時代に桧杓山城(桐生城)に攻め入り、その後城主として桐生を統治したことでよく知られている。その後、同氏は常陸国牛久(現茨城県牛久市)へと替えとなり、江戸時代には幕府旗本として高家を代々務めた。その後由良氏は、由良貞房(さだふさ)の子、貞顯(さだあきら)が横瀬氏(知行千石)初代として由良氏から分家し、大舘(横瀬)安次郎(八代貞篤の弟)まで九代続いた。この横瀬氏は、粟ノ谷村(現足利市粟谷町)、下菱村(現桐生市菱町)などを旗本領とした。九代目と、ここ泉龍院に埋葬された横瀬一族二名が大舘氏を名乗っていた理由は定かでなないが、新田宗家四代の新田政義の次男の家氏が「大舘」姓を名乗っていることから、大新田一族の由緒ある姓としてこれを用いたのではないかと推測される。
明治維新期、多くの旗本は、徳川家に随従して静岡へ移るか、帰農商工の選択を迫られた。中には江戸(東京)から地方の領地へと住まいを移した旗本家もあり、経済的苦境の中、質素に生活したようである。横瀬氏も同様に領地であった粟ノ谷へ身を寄せた。ここ泉龍院に眠る大館(横瀬)氏二名も粟ノ谷にて亡くなり、この地へ埋葬された。
・大舘銕之助(おおだちてつのすけ)
大舘銕之助は、横瀬氏五代当主横瀬貞径(さだみち)の三男であり、六代当主貞征(ていせい)と七代当主貞固(ていこ)の実弟。後に貞固と共に子の無かった貞征の養子となる。諱(いみな)を貞明(ていめい)という。生母は、長瀬氏の女。文政四年(一八二一)十月一日に江戸神田にて生まれ、明治元年(一八六八)十月三十日に没。享年四十九歳。
戒名は、養光院殿貞岳泰明居士(ようこういんでんていがくたいめいこじ)。
・大舘武若(おおだちたけわか)
大舘武若は、横瀬貞固の子である八代当主貞篤(ていとく)の子。母は、横江氏の女。明治二年九月一日生まれ、同七日に没。享年当歳。
戒名は、賢木院殿夢山良宥童子(けんぼくいんでんむさんりょうゆうどうじ)。

その他宝物

・韋駄天尊天立像(天文二年(1533年)創作)

・聖観世音菩薩立像(元禄八年(1696年)創作)

・千手観音菩薩立像(年代不詳)

・十六羅漢像及び四天王像等(安政二年(1855年)創作) 詳細は『欄間彫刻、十六羅漢』のページ参照

・その他多くの掛軸などがあります