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600年の伝統 桐生厄除け薬師霊場

泉龍院について

泉龍院の概要

創立

応永二十四年(1417年)室町時代、明の太宗建文十五年に当る

山号

田澤山(でんたくざん)

林号

青枩林(せいしょうりん)

寺号

泉龍禅寺 最初は潜龍院と称し、後に泉龍院と改む

宗派

桐生・細川氏の頃は天台宗であり、後に曹洞宗に改む(1546年)

開山

不盡大壽(ふじんだいじゅ)大和尚禅師(天文二年(1533年)6月1日進出、永禄四年(1561年)正月二十二日示寂)

開山禅師は、天文二年(1533年)6月1日進出し、後に大和尚自ら釈迦牟尼仏の尊像を刻り、当院に安置し、天台宗より曹洞宗に改宗(1546年)。

開基

開基は、不明であるが江戸時代の古文書に「桐生出羽守の先祖」との記述がある。この桐生出羽守は、山越出羽守と推測されるが定かでなない。

本尊

釈迦牟尼仏・薬師瑠璃光如来

伽藍

開山当時の伽藍は、本堂(法堂)・薬師堂・庫裡(大・小)・衆寮・客殿・宝蔵・倉庫・鐘楼・山門・総門等、優に叢林の規模を備えていた。

御朱印

当山は、石高九石三斗の御朱印地を慶安二年(1649年)の徳川三代将軍家光公の時より代々、受け賜っていた。

当山は、山林号を有する関東屈指の古禅林であり、全国より修行僧が集まり、学を講義して修行させた寺として宗門僧侶出世の道場として有名であった。文久三年(1863年)には当山にて栴崖奕堂(せんがいえきどう)禅師(後に大本山総持寺独住第一世、勅賜弘済慈徳禅師)が百日間の法要・教化をされた。

泉龍院の由来

泉龍院は、元の名を潜龍院といい、その昔皎龍が山中の池に潜み、里に出ては旅人は勿論、里人畜類までも害していた。たまたま、当地方を旅していた高僧がそのことを聞き、人々の難儀を救わんと山中にわけ入り、池のほとりに坐して背負い来りし薬師如来の像を前にして、薬師如来の真言を一心に唱え三十七日間御祈祷をした結果、今までこの地をあばれ廻っていた龍もこの法力によって池の中より出られず遂に法の悟りを聞いて往生したりと伝えられる。土地の人々はこの大池を埋め、この跡地に小庵を造りこの高僧に住んで頂き、薬師堂を建立、薬師如来像を安置したのがこの寺のはじまりです。

泉龍院の厄除け祈祷の由来

永禄7年に当地方に悪い疫病が流行し、人々が恐れをなしている時、たまたま当時の住職である吉山玄豚(きつざんげんたく)和尚(1561進山~1598示寂)の夢枕にこの薬師如来が現れ、「われ当山の薬師如来なり、信心を以て一心に礼拝せば直ちにこの地の疫病を除かん。さらに真言を唱えることによってその祈祷により領主に対して厄を除き大願を成就せしめん。」とのお告げがあり、直ちに薬師如来の真言を一心に唱え法印を結び薬師経を読誦した結果、不思議にこの地の疫病が止んだとされ、近隣の人々は、深くこの薬師如来を信仰するようになりました。その後、慶安年間に至り、徳川三代将軍家光公の命を受け当山山門に徳川家の安泰と庶民の安泰を祈るべく、厄封じ祈祷額を掛け、以後、厄除け、六算除け、虫封じ、身体健全、家内安全、交通安全等の約六百年に及ぶ伝統のある祈祷寺として今日に至っております。